ヤクザと刑事映画・ドラマ・小説分析
「ストロベリーナイト」のリアリティ

最近のエンターテインメント作品の大半が広い意味で「事件モノ」であるような気がします。警察、暴力団ヤクザが主役であれ脇役であれ出てくる映画・ドラマ、小説のなんと多いことでしょうか。

昭和の時代のフィクションの世界では刑事は拳銃撃ちまくり、暴力団ヤクザは過剰にコミカルで人情味があったり、逆に極悪非道の集団で勧善懲悪の引き立て役だったりしたものです。

踊る大捜査線が引き金になった気がしますが、最近の事件モノ作品は逆に警察や犯罪者のリアリティーを追及している風潮を感じます。警察組織内部の攻防、知的で冷たい現代ヤクザ、犯罪者の恐ろしさを描こうとしているのですが、逆に不自然になっているような気がします。

いくつかの映画の例を挙げながら説明させてください。

ただ単純に一つの映画を分析するというよりも、色々な作品で共通して感じる部分について書かせていただけたらと思います。

ドキュメンタリーではないてフィクション作品は最終的には見る人が面白いと思えばすべてそれでよしというのが大前提で、映画と現実のアラ探しをして「こんなことあるわけない」と貶めようとしているわけではないということだけご理解いただきたいです。

映画「ストロベリーナイト」

映画とドラマしか見ていないので、原作の小説についてはわかりません。今回は2013年に公開された映画「ストロベリーナイト」について書かせていただきます。



ストロベリーナイトは警視庁の捜査一課の物語です。

主人公は踊る大捜査線の青島刑事(織田裕二さん)を女性にしたようなキャラクター・・・というと、ちょっと違います、正義を愛するやや破天荒な敏腕刑事姫川玲子(竹内結子さん)です。

他の刑事が気がつかないようなことに気が付く鋭い洞察力があり、難事件を解決へと導いていきます。

一方で、こうした破天荒で優秀な女性刑事を気に入らない男社会の警察組織では圧力や忖度にさいなまれます。しかし、姫川には優秀な部下や助けてくれる上司がいて、障壁をはねのけながら事件を解決しようとする物語です。

映画「ストロベリーナイト」あらすじ

いわゆるネタバレはしません。

暴力団員4人が相次いで殺害され、連続殺人事件として捜査が進む物語です。捜査の中で暴力団捜査を専門とする組織犯罪対策部は暴力団の跡目問題に絡む内部抗争との見立てを示し、刑事部の上層部もそれに同調しようとします。

しかし、姫川刑事はそこに隠された謎を追っていくことになります。捜査一課の部内の軋轢やキャリア官僚のパワーゲームなどが出てきます。

警察の内部闘争が苛烈で、こうした刑事モノににありがちな単独捜査もあります。やや荒唐無稽でつっかえてしまうようなストーリーに感じる人もいるかもしれませんが、「踊る大捜査線」にしろ「相棒」にしろそういう物語は実際、面白いのでそこに突っ込むとそもそも警察エンターテインメント作品の根本にケチをつけることになります。それはちょっと筋が違うような気がするのでやめます。

 

連続殺人事件?

https://www.toho.co.jp/movie/lineup/strawberrynight/

刑事モノの映画やドラマ、小説がお好きな方には、身もふたもない話で申し訳ありませんが、まずもって日本で連続殺人事件というものは本当にごく限られた件数しか起きていませんが、「ストロベリーナイト」のシリーズでは毎回、多量の人が死亡する連続殺人事件が発生します。

世田谷一家殺害事件や秋葉原殺傷事件、大阪池田小襲撃事件、相模原障碍者施設襲撃事件など一つの現場で多くの人が命を奪われる事件はたびたびありますが、時間や場所を隔てて散発的・連続的に人が殺害されるという事件は極めて稀です。

うがった見方をしなければ楽しめるのかもしれませんがこのシリーズでは過去の事件とのリンクも多く、「あれもこいつが犯人だったのか」と、世紀の大事件の設定が続くと徐々に現実離れしてしまいます。

日ごろから警察が扱う事件のニュース報道にさらされている私たちは連続殺人事件が出てくるとやっぱり心のどこかでひかかってしまうのかもしれないと思います。

捜査でなく推理が続く

元来、捜査一課の捜査は科学捜査、客観的な証拠である指紋、DNA、目撃証言や防犯カメラ映像、通話記録などの捜査が中心ですが、そういった捜査がほとんど行われずに刑事の憶測と筋読み、推理を中心に話が展開していきます。姫川だけでなく、対立す警察官も同じです。

終盤、事件の全容が明らかになるシーンがありますが、犯人は都心の屋外で素手や拳銃で事件を起こしているシーンが出てきます。

すぐに指紋やDNA、目撃証言や防犯カメラの映像が見つかる状況に見えます。しかし、そういった証拠が手掛かりになることはなく、むしろ名探偵的に人と人のつながりを追っていくことが捜査の主になっています。

古畑任三郎、名探偵コナン、金田一少年の事件簿など警察捜査の実際をほぼすべて排除して犯人の心を揺さぶり、アリバイを突き崩し、トリックを見破っていく探偵モノの物語ならば、のめり込めるかもしれません。

「ストロベリーナイト」は警察の捜査現場の実際、内部の組織構造やパワーゲーム、バッジや手帳など小物のディティールが微細に描かれリアリティを追及しているように見えるだけに、逆に本筋の捜査が際立ってデタラメに見えてしまいます。モロ警察官が主人公の刑事ドラマで直感や推測で探偵的に捜査を進めていくのはいかにも不自然です。

経済ヤクザ・暴力団の描き方

日本の最近の邦画では暴力団が国の政・財・官と深くつながって利権を得ているような描き方をされている作品が、あまりに多いです。昭和の時代に比べて冷たい経済ヤクザのリアリティを描いているように見えますが、逆に興ざめしてしまいます。

「ストロベリーナイト」でも作中、暴力団の幹部同士のやり取りの中で東京都の環状七号線道路の1億円を越える工事をめぐる言い争いがあります。

ある組織が落札するはずだった工事を別の組織が落札することになり、軋轢が生じます。

作中、「入札を仕切った」とか「ウチが落とすと決まっていた」などという言葉がポンポンと出てきますが、現在の日本でヤクザやフロント起業が公共事業に参入することはほとんどありえません。

そもそも警察や行政が暴力団を排除しようとしているのも、あくまで工事の下請け業者(警備・コンクリート・砂利残土運搬など)からの排除です。暴力団やフロント企業が公共工事そのものを落札する元受け業者になるなど想定していません。

環状七号線(東京都道)の大型公共工事を他の一般の会社を押しのけて、暴力団が意のままに差配し、暴力団同士で利権を奪い合っているなどという設定はあまりに無理があります。

そもそも東京都が設定した最低入札価格を知ることができているという話もサラリと出てきますが、入札価格を知るには東京都の職員が暴力団に価格を漏洩しなければいけません。

東京都と暴力団が癒着して、公共工事を好き放題に分配しているという話はさすがにありえないストーリーです。

この指摘は細かすぎるんじゃないかと思われるかもしれませんが、いかにちゃんと取材、情報収集をしないでいい加減にストーリーを書いているのかがよくわかるシーンです。

 

キャリア官僚が事件の真相を闇に葬る

「ストロベリーナイト」に限ったことではありませんが、警察上層部が事件の真相を闇に葬ろうとするストーリーはいろいろな物語で現れます。事件の真相を突き止めた部下に「口外するな」と迫ります。ひどいストーリーでは殺人事件を事故や自殺として処理しようとまでします。

しかし、一般的な事件、ましてや殺人事件の捜査には数多くの人が関わることになります。交番警察官、検視官、鑑識官、捜査一課員、警察署の刑事課員、司法解剖をする医師が参加します。

目撃情報、遺体の状況や死因、指紋やDNAの採取、防犯カメラ映像など多数の警察官や警察職員が大量の証拠を集めてきます。

それを無理やり警察の上層部が「この事件はこういう結論にする!終わり!」などと無理矢理捜査を終わらせることなどできません。

 

ここまで読まれて「普通の人はそこまで知らないから気にならないよ。揚げ足取り・重箱の隅じゃないか」とご気分を害された方もいるかもしれません。

しかし、こういった現実社会や事件への取材不足はこの作品全体に通じて広がっています。不勉強なのではなく、調べる作業を怠っているように感じます。ちょっとした矛盾や非合理が積み重なっていき物語全体を通して「ありえない」雰囲気になってしまっています。

この傾向は日本の事件モノエンターテインメントに広く広がってるようにも見えます。

私も少なからずそういう業界の人と接する機会がありました。

エンターテインメントの世界全体が実社会を知らない文学青年少女たちの遊び場になっていると指摘する人や、映画会社が人気俳優、小説、主題歌ありきで制作を推し進めているのが問題だという人もいましたが、私は専門でないのでよくわかりません。

映画やドラマ、小説は結局のところエンターテインメントであり、そこに描かれる恋愛模様や権力闘争、恨みつらみなどを描き台、人間の心の葛藤を楽しませられればいいのかもしれません。

しかし、ファンタジーでない、社会派を標榜する物語ならばもう少しだけ、社会の実際を調べてからストーリーを作ってほしいと思ってしまいます。